なぜ、東京で成功したいアラサーほど苦しくなるのか
──「全部できそうに見える場所」で消耗してしまう理由

東京には、地方にはないチャンスがある。
大学進学を機に上京したとき、僕はそう信じていました。
仕事も、お金も、生活も。
ここにいれば、努力次第でいくらでも可能性が広がるはずだ、と。

実際、東京には選択肢があふれています。
SNSを見れば、特別な人に見えない誰かが、
すべてをうまく両立しているようにも見える。
「時間さえあれば、自分にもできるはずだ」
そんな気持ちになることも、正直ありました。

忙しいのに前に進んでいない感覚。
全部大事にしたいのに、どれも中途半端な感覚。
もしあなたが同じ苦しさを感じているなら、
まず伝えたいのは一つだけです。

この感覚を持つのは、とても自然なことです。

アラサーは、人生の重要テーマが同時に訪れる時期

アラサーになると、人生のテーマが一気に重なってきます。
しかも、そのどれもが「諦めたくないもの」です。

仕事については、ただ生活費を稼げればいいとは思えない。
昇進や転職、副業も含めて、自分の力で価値を出し、人の役に立つ仕事をしたい。
仕事は、人生において明確に“賭ける価値のあるテーマ”です。

一方で、結婚し、子どもが生まれると、家族の存在は一気に人生の中心になります。
人生の幸せは、家族なしには成り立たない。
そう感じるようになり、時間も心も、できる限り家族に使いたいと思うようになる。
これは「仕事と並ぶ」どころか、それ以上に大切なテーマです。

さらに、お金の問題も無視できません。
仕事も家族も、十分な選択肢を持つにはお金が必要です。
嫌な仕事を続けずに済むこと。
家族に我慢をさせずに済むこと。
節約や投資を考え続けるのは、贅沢のためではなく「自由のため」です。

問題は、これらすべてが同時に訪れることです。
どれか一つに集中すれば楽になると分かっていても、割り切れない理由があります。

仕事だけを優先した先に、家庭が壊れてしまった人を、実際に見てきた。
一方で、家族だけを優先した結果、仕事やキャリアから逃げた自分を、
一生責め続ける未来も想像できてしまう。
どちらかを選ぶことが、「別の後悔を確定させる選択」に見えてしまうのです。

その苦しさが、最も強く表れるのが育児の時間です。
大好きな子どもの世話をしながら、心のどこかで
「この時間で仕事や勉強ができたら、もっと成功できるのではないか」
と考えてしまう自分がいる。
家族を大切にしているはずなのに、同時に、別の可能性を失っている感覚も拭えない。

アラサーの苦しさは、能力不足でも、覚悟不足でもありません。
人生にとって重要なものが、同時に、そして等しく重たい形で現れる時期にいること。
まずは、その事実を認める必要があります。

東京では「すべてを両立できている人」が目に入る

東京で生活していると、「この人、全部できていそうだな」と感じる瞬間が何度もあります。
特にSNSを開いたとき、その感覚は一気に強まります。

激務な仕事に就いているように見えるのに、副業や発信を継続している人。
仕事で成果を出しながら、学習も、アウトプットも、自己実現も止めていない人。
特別な環境にいるようには見えない。「普通の会社員」にも見える。
だからこそ、余計に刺さります。

そのときに湧いてくる感情は、
単純な嫉妬や反感ではありません。
一番近いのは、羨ましさと、少しの悲しさです。
「自分だって、本当はできるはずなのに」
「能力は、そこまで大きく違わないはずなのに」
そう思えば思うほど、なぜ差がついているのかが分からなくなり、苦しくなる。

頭では分かっています。
SNSに映っているのは、人生の一部分だということ。

それでも苦しくなるのは、
「能力的には、できるはずだ」と感じてしまうからです。
できない理由を、環境や才能のせいだけにはできない。
そうすると、矛先は自然と自分に向かいます。
――自分の甘さが、
――自分の覚悟のなさが、
今の差を生んでいるのではないか。
そんな考えが、頭から離れなくなる。

東京は、この感覚を強烈に増幅させる場所です。
成功が遠い世界の話ではなく、
すぐ隣にある「現実」として見えてしまう。
しかも、それが仕事も、家庭も、自己実現も、
すべてを両立できているように見える形で現れる。

だから、理想がぼんやりした憧れでは終わりません。
「自分にも、できたかもしれない現実」として、具体的に目の前に突きつけられる。
その分、今の自分との距離が、はっきりと、痛みを伴って見えてしまうのです。

なぜ「気持ち」や「気合」だけでは限界が来るのか

やる気がないわけではない。
むしろ、ずっと「やりたい」と思っている。
それでも続かないことが、アラサーになると増えてきます。

例えば英語学習。
話せないことをコンプレックスに感じていて、
毎年「今年こそは」と思う。
でも、いざ始めようとすると、仕事が忙しくなったり、子どもが生まれたり、
その時々の理由が重なって、結局後回しになる。
意思が弱いからではなく、他に優先度の高いものが常に発生するからです。

同時並行をしようとしたとき、真っ先に削られるのは時間です。
仕事の拘束時間が長ければ、
最初から使える余白は多くありません。
そこに家族の時間や生活の用事が入れば、「やる気があっても、使える時間が残らない」
という状態になります。

ここで大事なのは、
これは気持ちや覚悟の問題ではないということです。
時間・体力・集中力には、誰にとっても明確な上限があります。
やる気がある人ほど、「全部やろう」として限界にぶつかりやすい。

だから、両立できないのは甘さではありません。
気合に頼る設計そのものが、すでに無理のある構造になっているだけなのです。

「全部を頑張る」という発想そのものが、苦しさを生む

振り返ってみると、一番しんどかったのは
「全部をちゃんとやろう」としていた時期でした。
仕事が忙しい中で、結婚式の準備を進め、
同時に資格試験の受験にも取り組んでいたとき。

どれも人生にとって大切で、どれも手を抜きたくなかった。
だからこそ、常に余裕がなく、
何をしていても「これでいいのか」という焦りが残りました。

この苦しさの正体は、頑張りが足りないことではありません。
「すべてを同時に、同じ強度でやろう」とする発想そのものに、
無理があるのです。

平日の終わりは、その感覚が最も強くなります。
今日も一日、仕事で時間を使い切ってしまった。
家族との時間をもっと取りたかった。
勉強にも少しは手をつけたかった。
一つの役割は果たしているはずなのに、他の大事なものに手を伸ばせていない感覚が残る。
その積み重ねが、「結局、どれも中途半端なのではないか」という
自己評価につながっていきます。

でも、冷静に考えると、人生のすべてのテーマを
常に全力で並行させることはできません。
時間も体力も有限で、集中できる対象にも限りがあります。
それにもかかわらず、仕事も、家族も、自己投資も、資産形成も、
すべてを今この瞬間に最大化しようとすると、
どこにも満足感が残らなくなる。

本音では、守りたいものははっきりしています。
将来、家族と幸せな時間を過ごすこと。
そのために、今は仕事を頑張りたいし、
資産形成にも向き合いたい。
家族との関係も大切にしたい。
つまり、目指しているのは
「今この瞬間の完璧さ」ではなく、
長い時間軸での幸せのはずです。

それなのに、短期の視点で「全部できていない自分」を評価してしまう。
このズレが、アラサーの苦しさを生んでいます。

「全部を頑張る」という発想は、一見前向きです。
でも実際には、人生のテーマに強弱や順番をつけられなくなり、
常に足りない部分ばかりが目につく状態を作ってしまう。
それが、消耗の正体です。

両立を可能にするのは「仕組み」しかない

ここまで振り返ってみると、
すべてを本気で両立しようとする中で生まれる苦しさは、
気持ちや覚悟の問題ではないことが分かります。

時間は限られている。体力も集中力も、無限ではない。
にもかかわらず、仕事・家族・学び・お金・将来設計を
すべて「その日のやる気」に任せて並行させようとすると、
どこかで必ず破綻します。

だから必要なのは、もっと頑張ることでも、
気合を入れ直すことでもありません。
必要なのは、仕組みです。

仕組みとは、気分や余裕の有無に左右されず、
自然と前に進んでいく状態をつくることです。
今日はやる気があるか、ないか。
今日は疲れているか、いないか。
そうした日々の揺れを前提にしたうえで、
それでも少しずつ積み上がっていく形を用意する。

すべてを同時に全力でやる必要はありません。
でも、すべてを諦める必要もない。
強弱をつけ、順番を決め、
長い時間軸で回る設計に落とし込めば、
人生のテーマは並列に進めることができます。

「今日はできなかった」と自分を責めるより、
「仕組みとして回っているか」を問い直す。
この視点に切り替えられるかどうかで、苦しさの質は大きく変わります。

だから今、すべてを本気で両立したいと願うなら、
必要なのは根性論ではなく、
人生を回すための仕組みをつくることだと、
僕は思っています。